「かぜいぬ」(Easy reading) ( No.234 )
日時: 2007/07/29 00:29
名前: 匿名上昇(第二級)

第二級の匿名です。匿名も被ると面倒くさいでしょうし、とりあえず匿名上昇とでも名乗っておきましょうか。気まぐれ参加です。グループ1【ノーマルゲーム】で。
高橋純子「苔の花」と坂本真綾「夜明けのオクターブ」へ。


「かぜいぬ」(Easy reading)

 何だか誰かが小声で喋っているみたいな、そうでいて静かな夜の布団の中でした。
 私はなんだか変なぐらいに何かが怖くて、お母さんに布団の中で抱いてもらっていました。
 風の音も少しもしない、とても静かな、夏の夜でした。眠れない私をお母さんはやさしく包んでくれました。何だか、お母さんのお腹を通じて、世界のいちばん深いところに居るみたいな気がしました。
「きょうは“かぜいぬ”のお話をしてあげよう」
 窓にかかった風鈴は風に揺れることなく、眠ったみたいにじっとしています。お母さんの声だけが、夜の中に響いていました。
 かぜいぬ? 私は聞き返しました。そう、かぜいぬ。お母さんの声が、お腹を響いて伝わってきます。
「あるところに、風の中を走る、いっぴきの、いぬがいました」
 お母さんは私のために、言葉を何度も切って、ゆっくりとお話を進めます。
「いぬは、風が止まってしまったらどこかに消えてしまうので、かぜいぬ、と。他の動物達に呼ばれました」
 風の無い、淀んだ夏の空気の中、お母さんの肌は汗ばんでいました。それが何だか私とお母さんを繋ぎ続けてくれている、しるし、みたいに思えて、私は夢中でお母さんに肌を合わせていました。
 お話は、続きます。
「かぜいぬには、おとうさんも、おかあさんも居ませんでした。かぜいぬは、いつ自分が生まれて、どこで自分が育ったのか、それすら覚えていませんでした」
「かぜいぬには、どうして風が無くなれば、自分が消えてしまうのか、わかりませんでした。それでいて、また風が吹き始めたら、かぜいぬは気がつかぬままに、また風の中を走っているのです」
 星の見えない夜が、風鈴のがらす越しにふくらんで見えました。お母さんの心臓の音が、お腹に置いたゆびの先から伝わってきました。
「あるとき、どうぶつたちの王のライオンが、せかいで一番早くはしれるどうぶつを決めよう、といいました。そうして、皆でかけっこをする事にしました」
「かぜいぬは、はしることがとっても得意でした。はしるのが大好きなかぜいぬは、かけっこに参加することにしました。いつも風といっしょに走っているかぜいぬは、他の誰かとかけっこをした事がなかったのです」
「でも、かぜいぬには、ひとつ、しんぱいなことがありました」
「かけっこの途中に、風が止んで、自分が消えてしまったらどうなるだろう?」
 ふと風が吹いて、静かに風鈴を揺らしました。からりん、という風鈴の音が止んだら、またお母さんは話を続けてくれます。
「かぜいぬは、それでもゆうきをふるって、かけっこに出ることにしました」
「でも、なんだか怖かったかぜいぬは、風が吹き始めたかけっこの日の朝に、真っ赤なお花を、おまもりに一本とっていきました。アネモネの、花でした」
 その真っ赤なお花がどんなものか、私は温かいお母さんの腕の中で想像してみます。きっとみたいな
「かけっこには、王様のライオンがじきじきに出ていました。そのほかにも、しまりすや、あらいぐま、きつね、足の速さが自慢のどうぶつ達が、出場していました」
「どん! ピストルの音が、鳴りました」
 お母さんは小気味良いピストルの音を声で真似て言いました。私は、何だか怯えているその何かがどんどん自分に近づいているような気がしていました。
 風が、次第に少しずつ、少しずつ、吹き始めます。風鈴はからりん、からりん、と鈴のような音を何度もたてながら、ゆれました。
「みんながいっせいに走りだしました。ちょうど風が吹いていたので、かぜいぬが消えてしまうしんぱいは、どこにもありませんでした」
「かぜいぬの足は、風に乗って、どんどん進みます。もりを越えて、やまを越えて、かわを越えて、風をきって進んでいきます。みんなをとっくに通り越して、かぜいぬは、ゴールのライオンのお城の近くまできていました」
「みんなはかぜいぬに一斉に拍手をしました。後には誰もいませんでした。かぜいぬは、どんどん風に乗って、走っていきます」
「そのときでした」
 私は、この暗闇の中に何かの動物が居る様な気がしました。その動物が、私をどこか、お母さんとも、お布団ともずっと離れた、どこか遠い国に連れ去ってしまうようにも、思えました。
「おまもりのアネモネが、ふわりと風に乗って飛んでいってしまったのです」
「あっ、とかぜいぬが声をあげた瞬間に、かぜいぬは消えてしまいました」
「みんなの目の前で、ちいさな赤い花びらだけが、ふわりふわりと飛んでいきました。風が静かに止むと、かぜいぬは本当にどこにもいなくなってしまいました」
 私は、かぜいぬを消したその犯人が、今ここにいる様な気がしました。そうして、その犯人が私を連れ去らないでくれるようにと、かみさまにお祈りしました。
 お母さんはお話しを終えると、私をゆっくりと腕から放そうとしました。私は、離れようとしませんでした。そんな私をお母さんは苦笑いして、そうして、抱いたまま目をつむって寝てしまいました。
 風が静かに動き出していました。風鈴の音、からりん、からりん。からりん、からりん。かぜいぬの鳴き声は、どんなものだったのでしょうか。からりん、からりん。からりん、からりん、からからから、……。
 お母さんの腕を抜け出した私は、立ち向かうような気持ちで、かぜいぬをどこかに連れ去ってしまった犯人の前で目をつむりました。かみさまが助けてくれる、と思いました。
 お話は終わってしまったけど、かぜいぬはたしかにこの世界に居るんだろう、と私は風鈴の音を聞きながら思いました。
 もしかすると、かぜいぬには鳴声がなかったのかもしれない。もしかすると、その声も、暗闇の中で私をじっと見つめている何かに、奪われていってしまったのかもしれない。わたしは何度もお祈りを続けながら、そうして、風鈴の音が突然に止んでしまったのを聞きました。
 そうして、くらやみの中の、犯人の息音がたしかに聞こえたのです。
 ああ、私は連れ去られてしまう。そう思うと私は怖くなって泣き出しました。そうして、おかあさんが飛び起きて、どうしたの、と私に言いました。風鈴はまた、からりん、からりんと鳴き続けていました。
 私は、どうやってこの気持ちを言えばいいのか解らなくて、ずっと泣き続けることしか出来ませんでした。そうして泣き疲れて、私はいつのまにか寝ていました。

 それからの私に、その犯人が訪れることはありませんでした。でもわたしは、あの暗闇の中で、確かにかぜいぬの鳴声も聞いたように思えたのです。
 かぜいぬが、あの暗闇の向こう側に居る。私は、そう思いました。
 そうして私は、窓に風鈴を吊るして、風に揺れる音を聞き続けていました。そうすれば、かぜいぬがまた来てくれる様に思えたからです。からりん、からりん、からからから……。
 そんな音を聞きながら、私はずっと、温かい暗闇が来るのを待ち続けていました。